伯耆国二宮 式内 大神山神社(奥宮)
概 要
社号 式内社 大神山神社奥宮
読み:古 オホムワ、現 おおがみやま
江戸時代は「大山智明権現」「大山権現」
所在地 鳥取県西伯郡大山町大山1
旧地名 因幡国巨濃郡
御祭神 大己貴神(おおなむちのかみ)
社格等
古代社格制度『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
伯耆国(ハフキ・ほうき):6座(並小)
會見郡[アフミ]:2座並小
中世社格制度 伯耆国二宮
近代社格制度 旧国幣小社
出雲国神仏霊場九番(20社寺)
創建 奥宮は少なくとも12世紀初頭までには創建
本殿様式 権現造
境内摂末社(祭神)
境内末社
下山神社 御祭神:渡辺照政朝臣
市寸嶋神社(弁財天社)
例祭日
春季大祭 5月24日
古式祭(神水汲取神事・もひとりしんじ) 7月14~15日
大山夏山開き祭 6月第1土曜・日曜日
秋季大祭 10月24日
文化財
奥宮の本殿・幣殿・拝殿および末社下山神社本殿・幣殿・拝殿 国重要文化財
一口メモ
30年前、長女が1歳ぐらいのときに夫婦で大山にドライブ行った際に立ち寄ったが写真がない。
大山の登山口にあり、奥宮の本殿・幣殿・拝殿および末社下山神社本殿・幣殿・拝殿は国の重要文化財に指定されている。
大神山神社(奥宮)と大山寺は、かつて神仏習合であった社寺が廃仏毀釈を乗り越えて少数な例を見ることが出来る。
歴史・由緒等
奥宮は少なくとも12世紀初頭までには創建していたと考えられる。しかし、当社の奥宮としてではなく、大山の仏徒が独自に大神山神(大貴己命)を大智明権現として祀る祠であつたと思われる。
明治8年9月30日神仏分離により、大智明橿現より本地仏が取り除かれ、、本社御祭神大己貴命の御分霊を奉遷して、本社の奥宮と定められた。
『沿革』
神代に八束水臣津野命と大己貴大神が大山預上で神事執行
大永2年(1522)夏宮が火災焼失
天文24年(1555)奥宮復興
明治8年9月30日神仏分離
大神山神社の御祭神は大己貴神(おおなむちのかみ・奥宮)あるいは大穴牟遅神(おおなむぢのかみ・本社)様で大国主神のお若いときのお名前です。大己貴神(大国主神)は古事記、日本書紀、出雲風土記等の神話・伝説に多く示すように数々の御神徳をお持ちです。
特に国造りをなされたことから産業発展、五穀豊穣、牛馬畜産、医薬療法、邪気退散の神として有名です。
奥宮は日本最大級の権現造りの神社で、神仏混交の様式を伝えています。
正面の長廊は、両翼約50メートルあります。(国指定重要文化財)
大神山神社の3つの“日本一”
1つ目は、大神山神社に続く道を自然石を敷きつめた参道の長さが約700mで我が国最長であること。
2つ目は、社殿が国指定の重要文化財かつ国内最大の権現造りであること。
3つ目は、奥の宮幣殿にある白檀の漆塗りが日本一規模が大きくて美しいこと。ほか西日本最大級の神輿もあります。
-文・写真 大山町役場 観光商工課 http://www.daisen.gr.jp/より-
大神山神社(本社)
鳥取県米子市尾高1025
伯耆国二宮
御祭神
大穴牟遅神(オオナムヂ)
相殿 大山津見神 須佐之男神 少名毘古那神
大神山神社旧国幣小社
(本社)西伯郡伯仙町尾市 山陰本線 伯耆大山駅より四粁
(奥宮)西伯郡大山町大山 山陰本線 伯耆大山口駅より四粁
祭神 大己貴命 例祭 (本社)一〇月九日 (奥宮)九月二四日
神紋 二重亀甲劔花菱 本殿 (本社)大社造 二・五坪 (奥宮)権現造 二〇・五坪
境内 (本社)一八一七坪 (奥宮)一五、七一八坪 摂末社 二社
宝物 短刀一口(長船住兼光・重文) 本社及末社下山神社社殿(県文化財)
氏子 本社 二百戸 崇敬者 奥宮 三千人
神事と芸能 奥宮 古式祭(神水汲取神事)七月一四日・一五日、山開き祭(六月上旬)、スキー祭(一月上旬)、春季祭(五月二四日)
由緒沿革
大神山は延喜式神名帳に「おおみ わのやま」と訓じ小社に列している。承和四 年従五位下を授けられ斉衡三年従五位上に、 貞観九年正五位下を陞叙せられた。後当国ニ の宮と称した。初め大山の麓の地に鎮座して いたが、後現在の地に奉遷した。後醍醐天皇 船上山に後遷幸の御時、朝敵退散の御祈祷を 籠めさせられた。是より先、仏徒の修験場と なり盛に堂舎僧坊等を建て、近世僧坊四二 院、社領三千石と称した。天文二四年尼子晴 久社殿の造営をなし、天正一〇年毛利氏また 社殿を修築し一千貫の社領を寄せた。次に領 主吉川氏社領八百石、元和二年津和野藩主亀 井政矩が末社を造営、寛永九年池田光仲因伯 二国の藩主たるに及び社領を寄せ社殿の造営 をなした。明治四年五月国幣小社に列した。 国立公園大山として世に知らる。
(神社本庁別表神社)-『神社名鑑』-
当社は、大神山神社の里宮にあたる。
本殿の無い大山(大神山)の遥拝所が神社へと成長。
冬季の厳しい積雪対策として、中腹に神社を建て、
元の地を冬宮、中腹を夏宮とした。
その後、夏宮は仏教化し大山権現となり、冬宮の神職達は里に降りてきた、それが時代を経て、現在の本社となる。
また、中腹の夏宮・大山権現は、現在の奥宮である。
元は伯耆大山(別名 大神岳)の麓に鎮座し、その神を祀るものであった。伯耆大山は、平安時代には修験道場として著名な山となっていた。当社は智明権現と称し、地蔵菩薩を本地仏とした。『勝見名跡誌』には伯耆大山の智明大権現と因幡・鷲峰山の鷲岸大明神が仲が悪く戦をしたとの伝承が載っている。元弘3年(1333年)、隠岐を脱出した後醍醐天皇が当社で鎌倉幕府打倒の祈願を行った。
現在の奥宮は、山腹に大山山頂の遥拝所として設けられたものと伝えられる。その後、奥宮は冬季に祭祀が行えないため、山麓に冬宮(現在の本社:鳥取県米子市(旧西伯郡伯仙町)尾高1025)が設けられ、夏季には奥宮、冬季には本社で祭祀を行うようになった。本社は当初は大山山麓にあったが、数度の遷座の後に明治初年に現在地に遷座した。
明治8年(1875年)、神仏分離によって大山寺を廃し(後に再興)、山腹の智明権現の仏塔を廃して奥宮とした。(ウィキペディア)
境内・社叢
大山寺と奥宮へ参道が続き、両側に茶屋や土産物店が軒を連ねます
大山寺左手の一の鳥居 日本最長約700mの石畳の参道
参道中頃にある石に掘られた吉持地蔵
二の鳥居 手水舎
内側に開かれるのが珍しい御神門 立派な石段と拝殿が見えてくる
石段前の狛犬
拝殿と左右の長廊、両翼約50mの拝殿
左右の長廊
国内最大の権現造り(本殿・幣殿・拝殿が一体)による社殿
拝殿扁額 拝殿内左手に馬
幣殿内部(内部撮影することは自重したいので神社公式からお借りしました)
内部。柱等の金色は日本最大級の白檀塗り。彫刻や彩色壁画が囲む。
※白檀塗:銀箔を貼った上に生漆を塗ってその化学変化により金色を出す技法。
欄間等に使われることはあるが、これだけ大規模のものはまれである。(公式サイト)
下山神社 八棟権現造で複雑な屋根構造をもつ華麗な造り
市寸嶋神社(弁財天社) 江戸時代の火災により焼失したと思われる社を再建したもの
参道から大山寺へ
逆から道順のままに紹介する。
角磐山 大山寺(かくばんざん だいせんじ)通称 大山(だいせん)さん
宗派 天台宗 別格本山
本尊 地蔵菩薩(じぞうぼさつ) (大智明大権現-だいちみょうだいごんげん)神号
創建・開創 金連(きんれん)上人 養老2年(718年)
ご利益 先祖、水子をはじめとする供養回向
家内安全、牛馬繁栄、厄払い、諸願成就の祈願祈祷
代表的宝物
重要文化財
(建物) 阿弥陀堂(あみだどう)
(金銅仏) 観音菩薩立像 4躰
鉄製厨子(ずし)
丈六木造阿弥陀三尊(仏像)
山岳信仰に帰依する修験道の修行道場として栄えた大山寺は、平安時代以降、山岳信仰の仏教化が進むにつれて寺院が増え、最盛期には100を超える寺院と3000人以上の僧兵をかかえるほどで、一大勢力として、比叡山、吉野山、高野山に劣らないほどの隆盛を極めていた。
しかし、明治初期の神仏分離・廃仏毀釈をきっかけに衰退の一途をたどり、数多くあった寺も現在は4つの参拝堂と10の支院を残すのみとなる。
本堂は天台宗の古刹で、昭和3年に一度焼失、同26年に再建。もとの大日堂で、明治8年以降本堂となる。大山寺の開創は養老2年(西暦718年)金蓮上人が地蔵菩薩をお祀りし、修験道場として開かれたが、貞観7年(西暦860年)天台宗第4代座主慈覚大師により天台宗に。
近世、封建時代には江戸幕府より3000余石寺領をゆるされ、別格本山としてその隆盛を極めている。
参道から大山寺へ下る川沿いに大きな岩 大山寺本堂 御本尊は地蔵菩薩
鐘楼 護摩堂
下山観音堂 御本尊は十一面観音菩薩
狐の狛犬が守り神 神仏習合の名残りか
地名・地誌
大山(だいせん)
大山は、鳥取県のおもに大山町にある標高1,729m(最高峰は剣ヶ峰(けんがみね))の火山。独立峰。鳥取県西部の旧国名・伯耆国の名称を冠して伯耆大山(ほうきだいせん)、また角盤山(かくばんざん)とも呼ばれる。西の方角(特に鳥取県米子市方面)からみた山容が富士山に似ていることから伯耆富士(ほうきふじ)の名も持つ一方、北・南壁は溶岩ドームが崩れた荒々しいアルペン的景観を見せる。一般的に主峰の剣ヶ峰~三鈷峰と外輪山の烏ヶ山・野田ヶ山・矢筈ヶ山・甲ヶ山・勝田ヶ山・船上山を総称しての名称でもあるが、岡山県側にある擬宝珠山・蒜山(上蒜山、中蒜山、下蒜山)・皆ヶ山なども含めて表すことも多く、専門家は同じ山系として位置づけている。現存する大山に関する最も古い記述は『出雲国風土記』の国引き神話で、三瓶山と同様に縄を引っ掛けて島根半島を引き寄せたとある。『出雲国風土記』中には「火神岳」(ほのかみだけ)と記されている。
古来から日本四名山に数えられ、神の住む山、大神(おおむわ)岳と呼んで崇められ、同時に、山岳仏教の修験場として栄えた大山信仰の中心地だった。神仏習合の時代は大山大智明大権現といわれ、3院180坊・僧兵3000人を誇った。この僧兵は大山衆と呼ばれ、後醍醐天皇の南朝復興に多大な貢献したと云われている。
地 図
交通アクセス・周辺情報
参 考
大神山神社公式サイト、
大山寺公式サイト
大山町役場 観光商工課
「延喜式神社の調査」、他
0件のコメント